【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

現代の探検家《河江肖剰》 =002=

2017-05-09 12:39:13 | 浪漫紀行・漫遊之譜

○◎ Great and Grand Japanese_Explorer  ◎○

新たなピラミッド像を追って、エジプト考古学の魅惑の世界=河江肖剰=

= Webナショジオ_“河江肖剰-新たなピラミッド像を追って”より転載・補講 =

☠ 発掘調査と先端技術によって、古代のピラミットの実像に迫る ☠

◇◆ 第一回 ピラミッド発掘調査への道のり = 2/3= ◇◆

 あれは中学2年生か3年生の頃だった。 日曜日の夜にサッカーの練習から帰ってくると、リビングのテレビがついており、エジプトのピラミッドの前で、2人のフランス人が何かを熱心に話す姿が映っていた。

 彼らは、「北面に位置する大ピラミッドの入口が中心になく、東側に7.2メートルほどずれているのは、とても奇妙なことだ」、 「内部の通路や部屋も大ピラミッドの中心軸の線上ではなく、すべて東側に位置しているが、それは左右対称を伝統とする古代エジプトの建築と合わない」、 「そのため、もしかすると西側には、これまで発見されていない未知の空間があるのではないか」……そんなことを熱く語っていた。

 座ることも忘れて、立ったままそのテレビ番組を見ていたと思う。

 この2人、ジャン=パトリス・ゴワダンとジル・ドルミオンというフランスの建築家は、その後、「オペラシオン・ケオプス」(「ケオプス作戦」の意。 ケオプスとは大ピラミッドを造ったクフ王のギリシア名)というプロジェクトを立ち上げ、エジプト政府から許可を得て、精密重力計を使ったピラミッドの密度調査を行った。  調査の結果、ピラミッド内部の「水平通路」の西側に密度の異常が見つかった。

 そこで2人は、水平通路の壁にドリルで穴を開け、もしその奥に未知の空間があれば、ファイバースコープで内部を撮影しようと考えた。 しかし実際に穴を開けてみると、予想だにしないことが起きた。 穴から砂があふれ出てきたのである。

 なぜ砂が出てきたのかはわからなかったが、ピラミッドは石材を積み重ねただけの建造物でないことはわかった。 しかし、遺跡に穴を開けて調査するという行為に世界中から非難が殺到し、彼らのプロジェクトは中止に追い込まれた……

 このテレビ番組が、私がエジプトに興味を持ったきっかけだった。 そして、このWebナショジオの連載で追々書いていくが、不思議な縁から、四半世紀を過ぎたいま、この未知の空間と関わるピラミッド研究に取り組み始めている。

砕け散った夢とロマン

高校時代は勉強もそっちのけで武道三昧だった。 大学受験に失敗したとき習っていた古武道の師匠から、なんのために大学に行きたいのか聞かれた。 「古代エジプトの歴史が好きなので、できれば、そのことを勉強したい」と答えると、ではまず、エジプトに行ってくればいいと助言された。

 師匠は半ば冗談で言ったのかもしれないが、私は「なるほど!」と単純に納得し、その日からエジプト行きの準備を始めた。 当時を振り返ると、最も有り難かったことは、両親や友人を含め、誰一人としてエジプト行きに反対しなかったことである。

 1年ほどかけてお金を貯め、大阪の伊丹空港からシンガポール航空で、エジプトの首都カイロに向かった。 機内では、不安を感じながらも、エキゾチックな砂漠の冒険が始まることを夢見ていた。 しかし到着すると、そのような幻想はすぐに砕け散った。

 カイロは東京以上に人が多いという印象を受けた。 砂ぼこりの舞う町の雑踏は車のクラクションと排ガスに満ちあふれ、半分壊れたようなタクシーに乗ったり、店でものを買ったりするたびに交渉しなければならず、とにかく疲れる町だった。逃げるようにピラミッドがあるギザの遺跡に向かったが、そこも都心部以上に騒がしい場所だった。
 ピラミッドは、砂漠の真ん中に孤立して立っているのではなく、町のすぐそばに立っている。 実際、泊まっていた安宿から車でわずか30分ほどの距離にあり、毎日、数万人の観光客と、何百人もの物売り、むちを持った厳めしい顔のツーリスト・ポリスがひしめく、喧噪に満ちた世界有数の観光地だったのである。

 日本で想像していたことと、まったく違う世界に戸惑う日々だったが、帰ろうとは思わなかった。 とにかく、まずここで生活を始めたかった。 遺跡のガイドの仕事があると聞いたため、日本人を専門とする現地の旅行会社バヒ・トラベル・エージェンシーに連絡してみた。 すると、アラビア語どころか、英語もおぼつかない10代の若造であるにもかかわらず、雇ってもらえることになった。

ギーザ (Giza/Gizeh)は、ナイル川中流の西岸に位置する。 首都・カイロからみてナイル川を挟んでおよそ20km西南にあり、現在では拡大したカイロの都市圏に内包されているが、行政上はカイロから独立したギーザ県の県都である。 人口はおよそ200万人。

古代エジプト以来の町であり、クフ王のピラミッドをはじめとするギザの三大ピラミッドと、ギザの大スフィンクスがある遺跡の町として世界的に有名である。 その一帯からダハシュールにかけてのピラミッド地帯は、1979年に「メンフィスとその墓地遺跡」として世界遺産に登録された。

ギーザの台地がエジプトの人々によって着目されたのはきわめて古く、エジプト第四王朝の諸王によって三大ピラミッドや寺院群が築かれた。 7世紀にエジプトを征服したアラブ人が現在のカイロの地にエジプトの首都を置いて以来、ギーザは首都近郊の都市として歴史に登場する。 エジプトの外港であるアレクサンドリアから陸路でカイロに向かうとナイル川の西岸を進むことになり、交通路はギーザからナイル川の中洲を経てカイロに至った。

このため時代によってはギーザからカイロにかけてはナイル川を渡る石橋がかけられるほど緊密に結ばれ、首都近郊の都市として有力者の邸宅が置かれることもたびたびであった。 軍事的にもギーザはカイロを巡る戦争における重要な拠点であり、10世紀のファーティマ朝や18世紀末のナポレオンなどナイル川の西岸からカイロに迫った勢力は、まずギーザを制圧してからカイロを征服している。

19世紀のムハンマド・アリー朝期にはギーザのピラミッドとスフィンクスがヨーロッパからやってくる外国人が必ず訪れる名所となり、カイロとギーザを結ぶ近代的な大通りも建設された。 20世紀にはカイロの都市化とともにギーザはその郊外地区としてカイロにいっそう結びつき、人口が爆発的に増大した。 またギーザのピラミッド地区は観光地化され、エジプトを代表する観光地として世界中から観光客を集めている。

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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

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